kdjdffdid’s diary

プログラミング, 人生, 投資などの備忘録

東日本大地震の頃の話 part3

多賀城の見慣れた国道45号線沿いがヘドロだらけになって一週間程度は変わらなかった気がする。

買い物目的と言いつつもひたすら歩いていただけだったと思う。

そもそも45号線沿いは津波をモロに食らったので再開まで時間がかかっていた。

それでも数週間後にはブックスなにわとかは在庫分だけで営業再開していた。入荷は滞ってたので雑誌とかは古いままだったが、読むものがなくて暇だったので助かった覚えがある。

 

インフラについての話。

地震発生後は電気ガスは止まったが水道は当日は出ていた。が、翌日には止まった。風呂場に溜めておけば良かったと後悔してた。

電気ガスは1ヶ月ぐらいは止まってた気がする。

水については近所の公園とか小中学校に給水車が来て、そこに並んで水を貰うという流れ。600ml程度入る袋に自分で蛇口から入れて、2袋持ち帰った。これが震災中の新しい習慣だった。

トイレについては水には流さずゴミ袋に纏めてた。風呂は我慢。ペットボトルの水で週一回くらいで髪だけ洗ったり、体を拭いたりはしたかな。

復旧して風呂入った時は全然泡だたなくて驚いた記憶。

東日本大地震の頃の話 part2

震災翌日、新聞が届いて散策兼食糧調達、情報収集に入った。

ちなみに自分の家には津波は来てないが、堀の水が溢れて道路までは浸水していた。家の駐車場は30度くらいの傾斜なのだが、20cmぐらいは上がってきた気がする。

(やっぱり書いてみると色々思い出せるな。。)

サンクスに行ってみたら前日より更に売り切れになっていた。

その後だったかブックマとかがある国道45号線沿いに行った。

(ありふれたな書き方だが)見慣れた景色から一変していた。具体的には津波で流された瓦礫や車は溢れて、一面泥だらけだった。スニーカーと自転車で向かったが、引き返して長靴に履き替えた記憶がある。

当然ながら自分が来る前には通り道を塞ぐ瓦礫はどかして遺体もどこかに移動されてたのだろう。車からはガソリンが抜き取られていたらしいし、流された店から使えるものは盗まれていたりしたそう(略奪はなくてもこういう事はあるんだなと少しショックだった。けど同じ現場にいたら自分は止めただろうか?)。カメラは回して問題なくかつ、金目のものは火事場泥棒に取られ尽くした状況だろうか。

ブックマも向かったがガラスは割れていて、無惨な姿だった。行かなくてよかったなとか、また津波来たらどうしようとか思ったっけ。

マジでカメラを持ってればと思ったし、ガラケーを持ってた兄が本気で羨ましかった。

続く。

 

兄弟姉妹との関わり方 part1

「成人して大学も卒業したんだし自分のことくらい自分でやってくれ。」

自分には妹がいて、分からないことを色々聞いてくるのだがこんな感想が絶えない。

スマホについて、留学について、送金サービスについて、色々聞いてくる。

パスワードって変えた方が良いのか、送金はどうやってやるのか?とか。海外渡航SIMカードの契約とか。

妹なりに精一杯調べた上で聞いてきてるのは分かるのだがそれでも俺も知らねえょとしか言いようがないことも色々聞いてくるのでどうしても疲れてしまう。

言葉を選んで「ここは自分で考えたほうがいいよ」とかは逐一伝えているが、響いているか?響いたとして、改善されたかは正直わからない。

勿論連絡するなと突っぱねたり、露骨に嫌な態度をとればこっちの時間は確保できる。がそんなことしたら萎縮させることになって精神的に悪影響及ぼしたり、本当に必要な情報が入ってこなくなることもあり得るし、明らかに損する行動を取ろうとした時にストップをかけることも出来なくなる。それを避けるためにもシャットアウトは出来ない。

が愚痴らずにはいられない。が愚痴ると兄が妹に対して怒ってしまう。どうすりゃいいのだ。

東日本大震災の頃の話 part1

実に中途半端なタイミングだが、自分自身の頭の整理も兼ねて、当時の記憶を書き起こすとする。当時は携帯もなく、デジカメはあったが充電手段がなくで画像がないのが悔やまれるが。

ボリュームは未定。オチとかはない。少し記憶違いはあるかもだけど。

当時多賀城市に住んでいたボランティアとかは何もしなかった中学2年生の体験談(と生活記)。

我ながら面白みはないと思うが、読んでくれた人が何か参考になったことがあれば嬉しいな。

2011.3.11その日は上級生の卒業式が終わって友達の家(アパート)で遊んでいた。

ゲーム(当時はモンハン3rdだったか?)ある程度遊んで解散し、近くのブックマーケット(以下ブックマ)に行こうとした。ブックマはゲームショップで新品/中古ゲームや漫画、ラノベとかが売られていた。サブカル系グッズはそこか、ブックスなにわ多賀城店、万代多賀城店に行って買っていた。一人でこっそりいったり、部活仲間とよく行っていた。ブックマでは当時BUMPの宇宙飛行士への手紙がBGMで流れていた記憶がある。

話がそれてしまったが、ブックマに行こうと自転車を走られせてたときに地震が発生。自転車の上からでも走らせながら揺れが伝わってきたこと、通り道の電柱の電線がちぎれていたことからこれは只事ではないなと判断して帰宅することにした。

なお、このブックマは見事に津波に飲まれてそのまま閉店した(少し前の時期に閉店してたかも?)。今はその敷地にはコーナンPROがある。

もしもこの時帰らずにブックマに向かっていたら、もしも地震前にブックマにいたら自分も津波に巻き込まれていただろうか。

(尚、当時遊んだ子には授業再開後に「あっ〇〇君死んだw」というイジりのような煽りのような言葉を貰った(※嫌な思い出じゃ無いよ)。彼元気かな。成人式以降会えてないな)

雪が降ってきた。地震後に雪も重なって寒いという状況。

帰宅後、家の中も色々崩れてた。

玄関の置物は割れて、リビングの棚の食器は割れていた。

自分の部屋も本だなや勉強机の本も崩れていた。

記憶は薄れているが、当時最初に会えたのは父だったはず。父はヤマダ電機多賀城店に3DSを買いに行って戻ったところだったそう。そのヤマダ電機津波に一回飲まれたのでこれも含めて付いていただったのかな?

ある程度家を見たあと食料調達が必要ということでお店を回った。自分は近くのコンビニやヨークを回ったが何もものは変えなかった気がする。記憶にあるのは地震直後は店が閉まっていたが、数時間たったあとに開店し始めたこと、そして今はなきサンクス(今はソフトバンクショップがある)で薄暗い中で人がごった返していたこと。暗くなったあたりで誰かが車のライトでお店の中を照らしてくれていたとか。

菓子パンや非常食として一般的な缶詰とかはすでに売り切れていた。カップ麺とか袋麺、レンジご飯とかはまだあった気がするが、ガスとかどうするか分からなかったので結局買わなかった。気がついたらそれも売り切れてたが。

結局何も買えずに家に戻ったが、家の中は危ないということでその日は車(三菱のディオン)でラジオを聞きながら過ごした。夜に暫くしたら2個上の兄(当時高校1年)が少し遠くのヤマザワで色々買い込んできてくれた。あの時兄が買ってくれなかったらどうしていたか分からない。とても感謝している。

朝になると河北新報が届いた。一面は当然のごとく地震の話題だった。このときはまだ東日本大震災という名称ではなく、関東東北大地震とかだった気がする。

ここから数週間、食料調達と散策を繰り返した。一旦ここまで。

WSL2にてC言語環境を構築

### まえがき

学校以来だが、C言語開発環境をプライベート環境で構築する。

大きな声では言えないがmakeコマンドの動きとかわかりきってないのを解消したいため。

しかし、Windows11だとLinux環境もコマンド叩くだけで作れるし便利な時代。

 

### 手順

以下のコマンドをwsl上で実行するだけ。超簡単

sudo apt install gcc

sudo apt install make

 

### 参考資料

【Windows10 WSL2/Ubuntu 20.04 LTS】gcc, make などの開発ツールをインストールして使う | The modern stone age. (yokoweb.net)